アラサー処女の懊悩

我輩はアラサー処女である。自分でも引く。

 

はじめに断っておくが、もしも同じアラサー処女の方がこの記事をご覧になっていれば、全ては私の個人的な思いなのでお気を悪くされないでほしい。人目を人一倍気にしてしまう、臆病で自己陶酔しがちなブスの妄言だ。

 

アラサー処女、世間的に見れば普通ではないのだろう。そういうと表現に障りがあるかもしれないが、少なくとも一般的であるとはいえまい。酷い羞恥を伴うこのステータスを、私はどうしようもないコンプレックスとして抱えている。かつて二十歳の誕生日を目前にし、道行く男性を捕まえて「抱いてください」と懇願しようか本気で悩んだ。

 

単純に私には性的魅力がない。自分が男性であったとて抱きたいとは思うまい。ただそうした客観的要素を度外視し、主観的要素を覗いたとき、果たして私は性的行為を受容できるのだろうかという疑問が頭をもたげる。端的に言って、自分が性的マジョリティーに属しているのかわからない。十代で”ノンセクシャル”という言葉を知ったときからもしや、という感を抱いていた。

 

言い訳がましいが、これまでの人生でセックスチャンスが全く存在しなかった訳ではない。

中学の頃、当時の彼氏とあわやセックスというところで生理であることを思い出し、致し方なくチャンスを手放した。その日の帰路で当該場面を回想し、彼氏への想いが急激に失われていったことを覚えている。気持ち悪くなったのだ。これは処女なら皆持ってしかるべき感情なのだろうか。セックスをしたことがないのでわからない。彼氏が特別気持ち悪い触れ方をしてきた訳ではない。だがそれ以来、彼氏に触れるのも触れられるのも嫌になり、程なくして別れを告げた。

 

女性なら恐らく皆そう感じていると思うが、男性が女性を性的な目で見ている瞬間というのは明々白々である。私はそれが気持ち悪くて仕方なかった。どんなに想いを寄せている男性が相手でもだ。それはセックスを目的とした下卑た感情であるからそう感じるのだろうと思った。

 

ところがついに、自分に対する純粋な恋愛感情の発露さえ、気持ち悪いと感じてしまうようになった。上記に同じく、好意を抱いている相手であってもだ。

 

また、私は何よりも実家で飼っている犬のことを愛していて、自分の命より愛犬の命の方が惜しい程なのだが、愛犬が私に懐き、尻尾を振って寄ってくる。それさえも、気持ち悪いと感じてしまった自分がいた。泣きたくなった。なぜこんなに愛しい犬の、それも女の子の、純粋無垢な感情すら受け入れられないのだろう。同性の友人が私のことを強く慕ってくれるときも同様だ。私は性愛はおろか、親愛さえ享受できないのだろうか。自分のことを異常だと思っている人間はキショいが、こればかりは異常だと思った。そしてキショい。本旨からずれるので蛇足だ。

 

男性のことを好きになることはある。寧ろずっとどこかに恋心を抱いていなくては日常を耐え忍ぶことさえ困難に思う。だがその恋心は往々にして虚像に向けられたものだった。私はよく知らない人間について自分の中で像を捏ね上げ、神格化している。実像を知った瞬間それは愛すことのできない土の塊と化す。中学以降、これまでの恋愛感情はなべてそんなものだったのかもしれない。(“夢見がちな喪女”の一言に尽きるだろうか。)

 

昔はスクールカースト上位の男ばかり好きになっていたものだが、いつしか性の匂いを全く感じさせない、肌が綺麗で草木のような眼鏡ばかりに惹かれるようになっていた。それは確かに恋愛感情であるときもあるが、彼らとキスできるか、セックスできるかと問われれば、できない。そういった行為に関心がなさそうな人間であるからこそ惹かれるのだ。彼らの性欲を許せない。虚像である。

 

私もアラサーだ。孤独は辛いし、人の待つ家に帰りたい。結婚はしたい。危機感を抱き、先日勢いでマッチングアプリに登録をした。

”セックスできません。それでもいいよという心優しき塩顔の人、結婚してください。”

そんな荒唐無稽なプロフィールを作成してみたものの、セックスというワードが引っかかって登録できなかった。なるほどね。致し方ないが、ヤリ目や、普通の女を望んでいる人間に目をつけられてもそれに応えることはできない。なんとかしてプロフィールにある種のフィルタリング機能を持たせたい。そんな思いから以下の趣旨を織り込んだ(つもりの)短文プロフィールを登録した。

 

・長年彼氏がいない女である

・まともな感性の持ち主ではない

・彼氏を作らねばという危機意識は抱いているがあくまで客観視から生じるものであり積極的な思いではない

・彼氏というより精神的に寄り添ってくれる人間を求めている

・ある程度の知的水準を持った人がいい

・塩顔が好き

 

短文でこんなこと伝わらねえよと思われるかもしれない。というかいいね!してくれる人たちのプロフィールや、いただいたメッセージを見るに、十中八九伝わっていないのだろう。人気会員である女性のプロフィールをいくつか拝見したが、それらと比較して真っ当なプロフィールとはいえなかった。つまるところ、真っ当な女でないことはプロフィールから明らかだと思ったが、それさえわかっていない人も多いようだった。真っ当な女でない自分を受け入れてくれる人を求めて作成したのに、現実は中々難しかった。

 

そんな中、アプリ内でのやり取りを重ね、お会いするに至った人がいた。その人を構成するどの要素を見ても真っ当で、温厚で、育ちが良さそうで、教養もあり、趣味の合う、顔が好みの人だった。上記のふざけた要請を満たすものではないと思ったが、せっかく同アプリ利用者である同僚に見つかる恐れと戦いながら利用しているのだ。とりあえず会ってみようと意を決した。

 

実際にお会いしてみると、当初の印象そのままの人だった。実物も好みだった。物腰が柔らかく、趣味の話も盛り上がり、かなり理想そのものだといえた。好きになれると思った。また会いたいと思った。

しかし、キスをしたいか、セックスできるかと問われると、できない。かくも理想に近い稀有な人間を前にしてもなお、私は不能なのだと思い知った。チェンソーマン2~4巻を買って帰った。

 

私はただ、恋愛感情は抱きながらも兄妹のように、親子のように、無償の愛で以って誰かと寄り添い、生涯を共にしたいだけなのだ。なぜそこに性的行為が介在しなくてはならないのだろう。

 

私は好きな異性とまともな関係を築けない。どれだけ関係が進展しても、その先に待っているものはセックスであり、その片鱗が見えた瞬間、私は尻尾を巻いて逃げ出すしかない。同じような悩みを抱える男性を愛せたらよいのだろうが、そういう問題ではないとも思う。生涯振り向くことない人間の偶像を拵え、崇拝するより他ないのかもしれない。

 

母は長年、私が同性愛者なのではないかと疑っていた。私も考えたことはあるが、どれだけ好きな友人であっても想像の中で性的接触はできないので、その可能性はないという結論に都度至った。その旨を母に伝えると、少しの安堵を見せた後憐れみを帯びた目線で、それは色情の因縁であると告げられた。あまりの意味不明さ、胡散臭さに私は笑った。なんでも父方の祖父と叔父が結婚後もずっと女遊びをしていた人で、そういった親類の元に生まれた子は男遊びが激しくなるかその真逆かの二極化するらしい。なんら根拠はない、スピリチュアルなものを信じる母らしい発言だと思ったが、これも呪いだと思えば腑に落ちるのかもしれない。原因になんらかの名称を与えられなくては宙に浮いた絶望がいつまでも所在なく蠕動する。

 

性的マイノリティーの中でも同性愛者に対する理解は随分と進んだのではないかと思う。尤も当事者からすればそんなことはないと感じられるのかもしれないが、隣の芝は幾分か青く映ってしまう。対してアラサー処女の称号は悲劇性もなく、ただただ滑稽で無様だ。悲劇性がないという点において私は悲劇のヒロインぶっている。そうでもしなくてはこの懊悩を飲み干すことができない。この存在を許されたい。

 

月に一度訪れる、鼠蹊部から爪先にかけて、脚の骨を溶けた鉛がどろりと這うような感覚が憎い。

私はどうすればよいのだろう。このまま孤独に死んでいくのだろうか。河川敷で鳥の餌になるのだろうか。

来世は木になりたい。